痙攣に関するパッチワーク

邂逅とはすなわち、燦めき、閃光、偶然のことである。

ミラン・クンデラ『邂逅 文学・芸術論集』、一一六項、河出文庫、二〇二〇年)

 

問題となるのは,自己から他者へと向かう直観ではない.他者から自己に到来する直観である.

そもそも直観とは,もっぱら自己から対象に向かうものしかないのだろうか.われわれが無媒介に何かを把握するとき,自分が認識するというよりは,何かが到来してくるといった方が,実情に近いのではないだろうか.

何かがふとひらめいたとする.そのとき,まさにひらめきが自分に到来したのである.ひらめいた瞬間,自分というものは背後に退いている.「俺が思いついたのだ」などと厚かましく主張するのは,ひらめきが訪れたあとである.

内海健自閉症スペクトラムの精神病理──星をつぐ人たちのために』、三五項、医学書院、二〇一五年)

 

女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツが置いてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みにになっていて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剥き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしているのを見ていたのだ。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が「あ」と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。その声に反応したホームレスが、かがんだままでこっちを向いた。それは鋭く見るというより、風の音を聴くような感じの柔らかさだった。女はできるだけ素っ気なく、つまり女もまた風の音がよその方向から聴こえてきたようなふりをして、それでも強引に身体を捻じるように、肩の向きを真横に向けた。(中略) 溢れてきて道に吐き散らかした。吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ。

岡田利規「三月の5日間」、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収、八〇~八一項、新潮文庫、二〇一〇年)

 

事実、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるを得ない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。(中略) 知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。

蓮實重彦『物語批判序説』、二八項、講談社文芸文庫、二〇一八年)

 

思考枠の誤りに気づくためには迂回路をしばしば必要とする。サッカーに喩えるならば、ゴールまでの最短距離は直線を描かない。サイドにボールを振って敵エリア深く侵入してからセンタリングでゴールを奪う。後方に潜伏するミッドフィールダーにボールを戻してシュートを決める。それがゴールへの最短距離だ。常識を覆すためには、こういう寄り道が欠かせない。

変われば変わるほど元のままというフランスの格言がある。構成要素が変わってもシステムの構造は変わらない。新しい知識を学んでも既存システムの内部に変化が留まるうちは堂々巡りを繰り返す。ところがシステムに無関係な要素を偶然が運んでくる。偶然出会った異邦人のまなざしがシステムを壊し、変化させる。多様性が偶然の出会いを生み、異端者や少数派が既存の思考回路と別の世界に連れていってくれる。そして偶然は必ずやってくる。誰にも、必ずやってくる。

(小坂井敏晶『格差という虚構』、三三三項、ちくま新書、二〇二一年)

 

字を売り、絵を売り、詩を売り、茶を売る放浪者たちは、動く事、流れ去る事に憑かれており、行き当たりにぶつかる事が生活となったその地点から、売るべき物が湧いてくる不思議に魅せられていた。常に立ち去る足の速さに、住む可き場所と暮らしの時間があった。

福田和也『日本の家郷』、一一項、新潮社、一九九三年)

 

重要なのは、商人が相手の合意なくしては何もできない(詐欺も合意を要する)し、何もしないということだ。商人は、共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な"他者"を相手にし、且つ彼を排除するのではなく、彼の自由を受けいれることでしか彼を拘束できないという場所に立っている。哲学者は、商人を、真の価値を偽る者(ソフィスト)として非難してきたが、この非難は的外れである。真の価値あるいは同一性を、共同体の外部で他者に出会う者が前提することなどできないからである。

今日の科学哲学者たちは、科学が自然の真理を見出すという考えに反対し、真理が説得あるいは言語ゲームに属すると考えている。要するに、科学者も商人なのだ。しかし、哲学も、もともと共同体の中ではなく、諸言語が交錯する「世界」、つまり他者を説得するほかに強制しえないような場所に発生したはずである。

柄谷行人『探究Ⅱ』、三二一~三二二項、講談社学術文庫、一九九四年)

 

「論文というのはチャーミングでなければなりません」

と言って、ホチキスで留めた束をテーブルに置いた。

「チャーミング、ですか?」

「ええ。チャーミングな論文というのは、動きがあるんです。速度を上げたり、落としたり、回り込んだり、待ち伏せしたり」

手のひらで空を切ったり、円を描いたりする。

「──動物みたいに、ということでしょうか?」

「そうです。テクストが生きている」

「動物になることについての論文を、まさに動物的に書くということですか」

「そうです。テーマがそうであるなら、なおさらそうでなければなりません」

(千葉雅也『デッドライン』、一三五~一三六項、新潮文庫、二〇二二年)

 

美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう。

アンドレ・ブルトン『ナジャ』巖谷國士訳、一九一項、岩波文庫、二〇〇三年)